ふとした弾みで「前科」を背負ってしまった鈴子は、絶え間なく続く周囲の噂話と心無い仕打ちに耐えかねて旅に出ることを決意する。
ある街に止まり、百万円溜まったら次の街へ移り住む、そんな暮らしを続ける鈴子が旅の先々で出逢う人々、そして彼らとの別れは…
バックパッカーのように前向きではなく、犯罪者の逃亡ほどの緊迫感に欠ける、平和な現代日本のワンダラーには実はそんな感じがふさわしいのかも知れない。
その放浪者が女性、しかも若い女の子で、演じるのが蒼井優と来れば、狭い日本国内を移動し続ける単なるロードムービーではなく、もっと違った色合いを帯びてくるのはなおさらだ。
映画の骨子は、地理的な移動をともなう旅そのものではなく、土足で玄関から上がり込んでくるように遠慮無く距離を狭めてくる他人の心から、自分の心をなるべく遠くに置こうとしてみる、そんな自他の心理的な距離を保つための旅だ。
「自分探しですか?」と尋ねられた鈴子は「むしろ自分から逃げている」と答えた。本当の自分を直視したくないために、そしてそんな自分を知る者から逃げ出すために。
でもこれを「自分探し」とは違うのだとする必然性が、ぼくには見出せない。一般的に言われる自分探しとは、その言葉に反して、はじめから自分という存在が嫌ほど分かった上での再確認作業だと思うけれど、それと鈴子が取っている行動との違いが良く分からないのだ。自分が好きなのか嫌いなのか、ただそれだけの違いではないのだろうか…?
そんなことを考えながら観続けるうち、「(距離を置きながら)人と長く付き合う方法」を求めていった先で、結果的に「別れがあるからこその出逢い」だと鈴子が気付く、そのプロセスこそがこの映画の芯になっていることに気付かされる。
出逢った瞬間に、別れに向かって歩を進めている。人間関係とはそんなものに過ぎないと知ることからすべてはスタートするという事実を、少女のような蒼井優が少し成長していく姿に託すこと。それはそれなりに説得力を持っているように思える。
ただしそうした、ある意味重たいテーマを軽やかに描くようでいて、その実、各エピソードや場面の端々に、身につまされるような、ハッとさせられる視点が欠けているように思うのだ。
海の家で働く最初のエピソードも、次に訪れる山間の農家の挿話も型通りの内容であって、異人として旅を続ける鈴子の心情だけが取り残され上滑りしていく。
この何となくモヤモヤしたままの展開を大いに挽回するのが、森山未来演じる男の子との出逢いが描かれる最後の街での話。互いに不器用な二人のいじらしい様子で満たされたこの最終章だけはすみずみまで瑞々しく、台詞と風景のそこかしこに美しい刹那が垣間見える。
それだからこそかえって、この最後の旅の始まりから終幕までの時間はいかにも短すぎ、そのせいか本来なら気持良く感じられるほどあっさりとしたラストは、妙なわだかまりを心に残してしまうほどに切ない。
うーん、結局、もう一つぼくには納得のいかない部分が多い話だなあ。
鑑賞メモ
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