スーパーマン (2025)

スーパーマンといえば、DCコミックス発のスーパーヒーローとして1930年代に生まれ、50-60年代の夢多きアメリカの時代を経て、長きにわたり愛され続けてきた存在。絶対的な善と圧倒的な力の持ち主として、時代の変化や様相に囚われることも少ないまま、何度も映像化を果たしてきた。
そうやって幾度となく語られてきたスーパーマンの物語だが、今作の一番の肝になる部分は、「『人間』としてのスーパーマン」という視点だ。といってもTVシリーズ「ヤング・スーパーマン」や「ロイス&クラーク(新スーパーマン)」のように、”日常生活の中に身を置く超人”といった側面を切り取った作品とは、趣が異なっている。

国家間に紛争が絶えず、事の正悪の判断の難しさはとことん混迷を極め、SNSのタイムラインに流れる意見の辛辣さに心をかき乱される。そんなセンシティブで揺れ動きの激しい現代社会を生き抜くことが困難であるのは、あのスーパーマンとて同じことではないか?という視点が、この作品で語られる「スーパーマン=人間」だ。
スーパーマンは他の星から来た「超人」であるとされてきたが、心と命を持ち、自らの思考と感情とから逃れられない存在、という意味では、「人間」そのものに他ならない。「異星人」「地球人」という括りではなく、それらはすべて心を持った「人間」であって、同じように悩み、傷つき、成長する。その姿はどこの星に生まれようが同じではないのか?という観点だ。
そしてスーパーマンの宿敵、レックス・ルーサーもまた、この視点の上では、自身の優秀すぎる頭脳を持て余し、他人への羨望と嫉妬に囚われながら、己の欲望を満たさんと振る舞う、もう一人の「人間」なのだ。

過去のTVシリーズのように、日常的な感情の振り幅に過剰に寄り添うことをせず、この2人の人間的な側面をじわじわと感じさせ、強調してみせたスーパーマンの物語は、これまで無かったと思う。
スーパーマンは人智を超えた存在ではなく、ただ単に、地球人とは異なる力を持っていて、それを使って彼にしか出来ない仕事をしているだけなのだ、そういう描き方のトーンが全編を貫いている。
この見立てが、ジェームズ・ガンが目指したスーパーマン像と合致しているかどうかはわからないが、さほど遠いものでもないのではないかな・・・と思っている。

と、そんなふうにここまで書いてきて・・・
製作陣の意図はそれなりに伝わるし、現代に即したスーパーマンの再定義みたいな取り組みも、ある程度のレベルまで成功しているとも思う。しかし一方で、そこにどうしても、何となくモヤッとした気持ちを覚えてしまうのは・・・
社会紛争やSNSという新たな社会課題にいよいよ囚われなければならなくなったスーパーマンというイコンが、本来陽性のキャラクターであったコミックヒーローとしてのスーパーマン像との間で、拭がたい消化不良を起こしているように、どうしても思えるからかもしれない。
どこまで行っても「スーパーマン」は「スーパーマン」であってほしい、社会課題や時代の背景は、それはそれとして受け止めつつも、エンタテインメントの枠組みの中で大暴れをしてほしい存在なのに・・・と思いたくもなる。

それは子供っぽい考えだと一蹴されてしまうかもしれないし、暗すぎる社会から目を背けようとする事なかれ主義と非難されるのかもしれないが・・・
しかし、能天気さを持ち続けることが功罪のように見なされる社会の生きにくさというものを、圧倒的な”娯楽力”で突き崩そうとするのもまたエンタテインメントの役割であって、それを諦めることはエンタテインメントの敗北を認めることになってしまいはしないだろうか?なんて思う。
社会とヒーローとの関係は、まだこの先どうなるのか分からないけれど、エンタテインメントの効力という視点を忘れずに、これからも見ていきたい。

そのほか、観ていて気になった細かい点を列挙すると・・・

  • かえすがえすも残念なのは、あのジョン・ウイリアムスの手になる勇壮なスコアが聴けないこと。旋律を流用している箇所はあるのだけど、やっぱりあの勇壮なブラスのメインテーマが聴けないのは寂しい限り。権利関係とかいろいろとあるのかもしれないが・・・
    近作だと『マン・オブ・スティール』ではあのテーマ曲は使用されず、『スーパーマン・リターンズ』は使用されていた。
    ちょっと引っ掛かりを覚えるような出来の作品でも、あのテーマソングが流れるだけで支持度50%アップ!みたいなことはあるので、その意味でかなりガッカリ。
  • レックスが、スーパーマンの戦闘時の動きを大量にコンピュータに取り込んで徹底的に分析し、パターン分類することで、それに対する適切な攻撃方式をナンバリングして、攻撃の番号を次々に部下に指示しながら戦う、というシーンがあるが、これはまるでビデオゲームのようだなあ・・・と思う。こんなところにもデジタルエンタテインメントの流れを見てとることができるのか、と、改めて観取した次第。
  • スーパーマンといえばこれ!というお馴染みのシーンが用意されているのだけれど、そこでスーパーマンが見せる笑顔は・・・こだわりが強いと言われるかもしれないが、スーパーヒーローがあのシーンで見せるべきは、あの笑顔じゃ無いんだよなあ・・・と、変な感じに落胆してしまった。
  • スーパーマンといえば、片腕あるいは両腕をまっすぐ前に突き出して飛ぶイメージがあるのだけれど、今作は両手を後ろに持っていって、顔を突き出すようにして飛んでいる。
    そうすると、顔の大きさばかりが妙に強調されて、意外になんだか怖い感じになるということに気づいてしまった。あの腕のポーズにも意味があるんだなあ、と妙なところに得心。

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